Essay
「行為 ~自然体 March2005」
March 2005.
「行為~自然体」
TAFE学生生活後半折り返し地点での2週間のイヴェント参加であった。
練習時間が思うように取れない状況で本番に挑む。
師、小口大八宗家より受けた日本鼓道、鼓訓、そして開祖遠山寛賢に遡る日本正統空手道を演じるとは? 到る行為は形容詞という用言では作用しない。
ティームワークは勿論では在るが、個の演奏と実景を存在させる瞬間。
いわゆるこの双方の冠たる日本伝統芸術文化は私に とってはアートとしてかなり奥深い精神論を持っていた。原理を与えられ鼓舞され、その魅力に満ちた行い。私自身独特の 思想も持ち合わせていると考えるが、両者いい加減が出来ない純粋さがある。この心情は意味を持たない又意味の無い事或いは 理解しきれないと思われた者が居たのかもしれない。私にとってはパフォーマンスする以前の必要な大きな要素である。
意味が持たされるとは何か?とかく初回YOUNGでの太鼓演奏と最終MOUNT GAMBIERでの舞台は明らかに創作曲構成、打法動作、メンタル共異なる。 厳然たる余韻。太鼓の生み出す生命力。事に和太鼓長幼序の道義そこには自由創も実在する。袖でリズムを取って頂いた方は違和感を 持たれたであろう。それでも最後まで打ち続けて下さった。感謝したい。あえて、ワンダーバス巡回の為つまり決められた、 与えられた制限時間枠内に私が自由構成した曲であった。無論戸惑うのは無理も無い。いい加減が出来ない純粋さとは精神統一は勿論の事、 気の流れを判断する必要があった。流れを判断してヤル、その流れに沿ってヤル。空手演武についても言えようステージの大小、 幅により臨機応変に対応した。このイヴェント終了後、私自身この先の課題が生じた。有難い。人生意気に感ずる。
